奈良国立博物館で6月16日~古事記編纂1300年に合わせた
「古事記の歩んできた道」の特別展が始まりました。
平成24年(2012)は、和銅5年(712)に『古事記』が撰上されてから、
ちょうど1300年の記念の年に当たります。
『古事記』は、この国の建国の由来と、7世紀前半の推古天皇(554~628)までの歴代天皇の
ことを記した書物で、まとまった分量をもつ文献としては日本最古のものです。
その編纂は天武天皇(631?~686)の時代に始まり、一時の中断を経て、
元明天皇の時代に完成しました。
序文によれば、天皇の命を受けた太安萬侶(?~723)が、稗田阿礼(生没年不詳)の
暗誦する文を筆録したといいます。
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近鉄橿原線笠縫近くの畑には、直径約8メートル、高さ1・5メートルの
小山状の円墳があり、地元では太安萬侶の遺品を納めたとの伝承があり、
田植えが終わった水田に小山状の円墳の様子が良くわかります。
太安萬侶の“参り墓”と称され、「太安萬侶の墓」と書いた標識が建っていたのですが、
随分前の台風で壊れて以来、このような状態で放置されています。
友人宅へ届け物をするために、自転車で出かけたのですが、
あちらこちらに 「古事記 ふることぶみ 太安萬侶のふるさと田原本町」の幟に・・・・
方向が同じだったので、久し振りに「多神社」に立ち寄ってみました。
以前には見かけなかった 多坐弥志理都比古神社(おおにますみしりつひこじんじゃ) の
新しい趣きある案内板が常夜燈傍に。
あれ!こんなに新しかったかなあ! いやいや・・地元の方の熱意のお陰。
地域の方たちは、多坐弥志理都比古神社長い呼び名ではなく、
最初の「多」と最後の「神社」で、「多神社」と親しまれています。
二の鳥居と拝殿
拝殿・本殿への参道 社務所前鉢植えの ササユリ ユリ科 ユリ属
拝殿前の狛犬 拝殿の後ろに本殿
東西に一間社春日造で並ぶ四殿配置の形式、
(向かって右)東の第一殿が神武天皇を、第二殿が神八井耳命(神武天皇の第二子)を、
第三殿が神淳名川耳命(神武天皇の第三子で、後の緩靖天皇)
第四殿が姫御神((神武天皇の母)をそれぞれ祀っている。
第一殿が神武天皇 側からの映像です。
江戸時代中期の建築等式をよく残すもので、
平成8年に県指定文化財にされている。
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二の鳥居に戻って少し南に歩くと 小杜神社 ・・・・・ 旧村社。
多坐弥志理都比古神社の摂社で、祭神は太安萬侶。
鎮座地の小字を木ノ下というため木下社ともいう。
小杜神社の朱塗りの鳥居の側で、アカメガシワの花が満開でした。
アカメガシワの♂花・・nobaraさん

安萬侶は古事記を編纂した奈良時代の役人。
現在の田原本町多地区を本拠とする豪族の子孫とされ、 昭和54年に奈良市内で
安萬侶の墓が見つかり、遺骨は近くの寺で保管されていた。
古事記編纂1300年を機に、多宮司が分骨を依頼し、遺骨の一部を譲り受け、
伝承地の円墳を整備する方針だったが、手続き上の問題などから計画を断念。
同神社の近くに「太安萬侶陵」を造り、命日の7月6日に納骨の神事が営まれるとのこと。
樹木に覆われた敷地の中で大型の建築機材が待機していたのは
そのためかも知れません。
知らない方が多いかなあ! 近鉄沿線近くの田んぼの中。
近鉄線路の左に畝傍山が望めます。
これを機に草を抜いたって感じ!
奈良の旧跡には近鉄とご縁が深い・・・・
ご他聞にもれず、こちらも近鉄特急が古墳の直ぐ側を・・・・
そんなこんなで国中(くんなか)の小さな町も古事記1300年を機に
フォーラムやウオーキングイベント、歴史講座を企画されています。
「町の魅力に住民自身が気づき、誇りが持てるきっかけにしたい」 ・・・ と。
努力くださっています。
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五條・藤岡家所有の「国宝真福寺本古事記」写本(昭和18年復刻版)から。
(やまとは くにのまほろば たたなづく あをかき やまこもれる やまとしうるはし)
の記されている箇所を訊ねて・・・・・・・
寛政11年刊行 「古訓古事記」
木花之佐久夜毘売命 (コノハナノサクヤビメノミコト)ポスターへと ・・・・・・
つづく 。